Carrot_Small紙バンドの詳しい話

(1)紙バンドの紙

紙がなければ今の社会は成り立たないといっても過言ではありません。紙はいろいろな顔を持っています。その中で紙バンドに適している紙は一つしか無く、しかも、日本でしか(※1)生産されていません。ここでは紙バンド製造に使用される紙から説明を致します。 紙バンド手芸を楽しみながら、紙についても思いをはせて下さい。

(※1)紙バンドに使用する紙を抄くマシンは丸網ヤンキーマシン(ティッシュマシン)と呼ばれています。この形式の抄紙マシンは家庭紙では一般的な為、大手家庭紙メーカーでは主力のマシンです。しかし小規模なマシンとなると数が少なくなっていて、日本でしか見られない特殊な抄紙マシンになっています。実は兎屋店主は小規模製紙会社の丸編ヤンキーマシンが好きです(笑)

紙には「洋紙」・「和紙」と言うカテゴリーがあります。日本には明治時代、欧州から機械で紙を抄く(すく)技術が伝えられました。 これが今の日本の製紙業の元となった紙です。 ここから発展した紙が皆さんの生活で一番手にふれ、目に付く紙で当時は、西洋の紙=「洋紙」と言う呼称が付けられたのです。一方「和紙」という言葉からどんな事が連想されますか? 日本伝統イメージがあると思います。和紙は今でもそうですが、昔から高級品でした。しかし昔は庶民の生活に溶け込んでいました。 障子紙や紙子(紙製の雨具)、傘に貼る油紙の類は有名ですね。

ここではコヨリに注目します。 コヨリも、庶民生活に関わっていて、紙を裂いて手で撚って(撚る:よる)紐にする。この所作は日本風景の一つでした。 なぜ撚るのか?それは、私達の文化の根本である稲作、 その稲作の副産物の藁(わら)が有ったからです。紙を撚る事の原点は、藁」を撚ったり綯ったり(よったり・なったり)する事でありました。 日本に稲作文化が大陸から伝わり、 米を収穫する際に副産物として生ずる藁がその農作業に利用され、(梱包資材ですね)収穫された物品を梱包する際に利用されるのは、 自然だったと思います。そのような風土の上に紙が大陸から伝わって来ました。

当時貴重な紙は、重要な事柄などを記録保存する為に重用されていて、当然「製本」と言う過程が発生する事になりました。「製本」も「収穫」も束ねるという事には変わりありません。 そこで使用されたのが、藁ではなく紙を撚ったコヨリでした。 ここで撚る対象が藁等の自然に自生する植物から、 加工生産された物になったと言う事です。 昔から世界中で生活用具としてカゴ・バッグ等が作られて来ましたが、そのほとんどが自然の植物等をそのまま使用しています。今でも東南アジアやインド・アフリカといった国々では日常生活用具として使用されています。日本でもツル性植物で編まれたバッグが人気です。

紙の伝来と時を同じくしてコヨリも伝わり、時代は明治に変わります。千年以上の間、和紙だけで生活していた日本人は初めて洋紙に出会います。近代社会は洋紙無くして発展されませんし、いきなり西洋列強の前に放り出された日本は必死で列強 国に追いつく為に、社会構造をも変えながら変化して行きます。そして外貨獲得の為に輸出も始まりました。 物が動くと言うことは、当然「梱包」をしなければなりません。 束ねたり、包んだり、箱に入れたり、更にそれを、まとめて行李にしたり、いろんな形状の物を梱包すると言う事です。 それらに藁のロープやムシロ、麻のロープ等が使われていました。この頃はまだ紙バンドは登場していません、時代もそれを要求していなかったからです。 時代は、更に下り戦後と成ります。 明治時代もそうでしたが、戦後日本は何も無い所からの出発です。

大陸や南方に植民地(委任統治領も含む)を持っていた日本は、そのすべてを無くし、敗戦により外地から多 くの日本人が帰国しました。 戦後の混乱期、人口増で不況にあえいで居たのに、 更に食い扶持が増した日本はここで工業化の道に進まざるを得なくなります。 限られた土地での食料生産だけでは国民の食を満たせず、 外国から食料を輸入する為にお金が必要になったのです。(同時に新たな開墾政策が進められましたが、この話は農の話になるので省略) 明治時代の外貨獲得は富国強兵の名の元、列強に食われまいと必死でしたが、昭和20年代のそれは、そこまで来ている飢えとの戦いです。 で、やはり物が動くと言う事で、やはり「梱包」が必要になります。 ただし、明治時代と違い、荷物と梱包材料のバランスが微妙に狂って居ました。こういう所から次の時代は始まるのでしょう。

食糧が足らないと言う事は大きな問題で、対応する梱包材料が無いと言う事は流通に関わる人にとってはちょっとしたコトです。 例えば物資によって「材料が足らない」という現象が起こったのです。戦前、南方や大陸から入ってきていた、麻や木材の量は激減し、それぞれの国の重要な輸出品目になっていた。 また、それらを買うにも資金計画が立てにくく以前のように、植民地から物品を仕入れると言う訳にいかず、相場で仕入れをしなければならなくなったのです。 麻は元々日本には有りませんし、木材も戦争中にドンドン伐採していました。そこで紙に光があたりました。木材(木箱)の代わりに台頭して来たのが段ボールです、 日本ではすでに段ボールの生産は行われて居ましたが、 木材不足と工業化の波で日本中に段ボール工場が出来ました。 これが、昭和20年代半ばの頃です。

(2)紙バンド生産のきっかけ「一ツ山産業さんの資料から」

この(2)項は兎屋がお付き合いさせて頂いている一ツ山産業さんの資料を拝見し、紙バンド製造のきっかけが思っていた事とは違う所で発生していたという事がわかりましたので、書き加えました。

第二次大戦の終戦(昭和20年)後、木材資源が少ない日本では、当時の商務省が「木箱1箱分の木材をパルプにすれば段ボールが11箱取れる」というキャッチフレーズの元、段ボール箱への転換を推し進めていたそうです。 しかし木箱に掛けていた当時一般的だった鉄製の帯鉄という梱包材をそのまま段ボールに使用すると、段ボール箱が壊れたり、帯鉄をカットした時に撥ねて危険だったり、錆の発生が見られたりと問題となったようです。

そこでこれらの問題を解決しよう、松沢楢太郎氏(日本帯鉄工業社員)とおっしゃる方が、紙紐を糊に浸して帯状に接着して帯鉄の代用とするアイデアを思い付いたそうで、それが紙バンドのきっかけ!のようです。昭和27,28年頃だそうです。紙バンドは欧米発の帯鉄とは違い、日本独自のものです。但し、日本には水引がすでに存在していたので特許を取得する事は出来なかったようです。

また、松沢氏とは別に石川清一郎氏(東京物産社員)と言う方も紙バンド作りを行っていたようです。松沢氏、石川氏の両氏とも紙紐を糊に浸して帯状に接着する事は同じでしたが、製造方法は少し違っていたという事で、ここから切磋琢磨が始まり、現在の紙バンド製造に繋がっているという事がわかりました。注目すべきは発端となった人たちが紙業界ではなく、梱包業界の方だったというのが私(兎屋)の驚きでした。もちろん紙バンド製造確立には紙関係の方達の協力は当然あったのです。 ←ここまで書き加え。(一ツ山産業さんの資料から抜粋)

さて、藁を綯ったり撚ったり(なったり・よったり)して日本人の記憶に刻まれた、 風景が紙の伝来や西洋化の波、そして戦争と敗戦、戦後の工業化を通って、やっと「撚る+紙+工業」が結び付きました。 稲作が大陸から伝わり、実に千年以上の時間が経っています。紙バンド手芸の手を休めて「紙バンド」を ゆっくり眺めて見てください。 世界のどの国にもありません、一般に古くて新しい手芸と言われる人も居ますが、実はもっと深いのですよ。 見れば見るほど不思議な材料ではないでしょうか?これこそ日本人ならではの材料だと思っています。

(3)紙バンドの状況

忽然と東洋の島国に出現した紙バンドが、どの様な運命をたどって来たのか、見てみたいと思います。ちょうど同時期広まって行った段ボールと比較説明をすると面白いです。段ボールも、紙バンドも原料や商品から見た時、同じ紙製品ということで多くの共通項があります。パルプを原料とし、紙を作り加工し、その後梱包材料として流通しています。しかし決定的に違う事が一つ有りました。今もって段ボール箱に劇的に取って変わる物が現れないのに対し、紙バンドには早々に強敵が現れ、取って変わられたのです。それは皆さんよくご存知のPPバンドです。引っ張り強度が高く耐水性抜群、市場に出た時から、自動梱包機とセットで販売され、高度成長時代にマッチした製品で有りました。そしてトドメは価格の安さに有りました。梱包用紙バンドはあっという間に目立たなくなりました。ところが段ボールは日本の工業化が進み生産と物流量が飛躍的に伸びるに比例し使用量は増したのです。工業製品だけで無く、農産物の出荷など、様々な物品の梱包に無くてはならない梱包材料に成っていったのです。(ご年配の方ならりんご箱=木箱の事を覚えていらっしゃる方も居られるでしょうが、いつの間にか段ボールに変わっていたでしょう。)さすがに昨今のエコロジーブームで、無駄な包装資材を見直す風潮があり、以前に比べて段ボールの生産量は減少していますが、それでも梱包材料の雄です。

さて、目に触れる事の少なくなった紙バンドですが、 国内では米麦袋の口の所の縛り紐用に需要があります。また輸出用として製紙機械の紙枠替え用カッターとしての需要が有ります。米麦袋の縛り紐は、まだ見る機会も有りますが、製紙工場のマシンに取り付けられている紙バンドを皆さんは多分見る事は出来ないでしょう。(薄い紙だとエアーで吹き飛ばして紙を切るのですが、厚紙や広幅の機械は紙バンド等を使って物理的に切っています。:紙バンドで紙を切っている事を一般の人達が知らないのは仕方無いけれど、実は紙業界のかなりの人が知らないのも事実、それ位マイナーなものです) その様な状況が長く続いていましたが、一部の方たちの間では細々と手芸の材料として使われていました。知らない人が多く一見新しい手芸材料に思われがちですが実はずっと前からあったんですね。この時期を私(兎屋)は紙バンド手芸の冬の時代と勝手に呼んでいます。

そして平成12年(2000年)頃からカラフルな紙バンドが手芸用として再度出始め、新たな紙バンドの歴史が始まった のです。 PPバンドに駆逐され梱包材料として生き残れなかった紙バンドですが手芸材料として脚光を浴びています。元々梱包材料の紙バンドですが、活躍時期の如何に短かったか。そして今、手芸用材料としてお届けする紙バンドを思う時、 私は紙バンドの本当の用途はこっちじゃなかったのかなぁと思ったりします。 さて、私が紙バンドの仕事を初めて十数年になりますが、以前から疑問に思っていた事が有りました。 兎屋に来られるお客さんが各年代を問わず、この手芸を存知だという事ですが、その中でごく一部の方が、「むかしも手芸用のカラーのバンドが有りましたよ」 とおっしゃるのです。 実際この手芸が何十年も細々と続けられていた事は知っていましたが、 梱包材料の有効利用の域を出ないものと解釈していました。 なので以前もカラーバンドが有ったとは俄かには信じられませんでした。 しかしお客さんが勘違いされるはずも無いしと考えていました。その疑問が解けました。

兎屋が懇意にさせて頂いているマサノさんが昭和40年代にカラーバンドを作っていたという事が判りました。マサノの先代社長さんが作り、自ら見本を持って売られていたという事です。しかも御自身でカバンに見本を入れて一軒一軒、手芸屋さんを回っていらしたとの事です。特に九州地区中心に営業をされていたようです。一時的にブームに成ったようですが、現在のカラーバンドと比べて色の種類も少なくその後は注目される事もなく 工場の倉庫に眠っていたのです。

マサノさんのご好意で 当時の商品が有ったのでお借りしてきました。当時は石畳編みが主流で5~6本バンドで製造が始まり、後に13本のカラーバンドまで広げられたようです。 お借りしてきたのはストライプ加工のなされているバンドで現在でも充分に通用出来る商品だと思いました。 古くて新しい紙バンド手芸と思っていましたが、ずいぶん前からカラーバンドが存在した事に感激をしました! (兎屋店主)

(4)昭和40年代のカラー紙バンド (おまけ)

奇跡的に残っていた当時の5本紙バンドです。今の形態とはずいぶん違っています。 梱包の仕方が「糸」「平紐」の影響を受けていると思います。今風に言うとストライプですね。 シロ×草色、シロ×アカで作っていますが並べ方はそれぞれ違います。 ※5本で1包みの商品に成っています。先方の社長様からは、一束使って作品を作ってもいいですよと言われていますが、もったいなくて封を切るのがためらわれます。それにしてもよく残っていた物ですね。ナイロンの袋が時代を感じさせます。先代の社長様がカバンに入れてお一人で営業をしていたとの事ですが、 兎屋も見習って行きたいものだと思いました。この商品写真(昭和40年代)は、兎屋が懇意にさせて頂 いている会社様の了解を得てホームページに掲載させて 頂いています。
(兎屋 店主)

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