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ヒロシマ新聞 昭和20年8月7日朝刊

1945年夏、
昭和20年8月7日付の新聞を持っています。


ヒロシマ新聞Link と書かれたその新聞を手に取ると一面トップ上段に「新型爆弾 広島壊滅」と書かれています。実はヒロシマ新聞社と言うのは存在しませんし、この新聞の本当の発行日は1995年(平成7年)です。私がヒロシマ新聞を手にしたのは2008年1月30日、四万十市の本屋さんです。ヒロシマ新聞発行の意図については「この新聞は、原爆投下で発行出来なかった1945年8月7日付けの新聞を、現在の視点で取材、編集したものです・・・・」となっていて、その新聞をさらに2005年(平成17年)に再構成したようです。私の持っているヒロシマ新聞はその時の版のようです。
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私が生まれたのは1959年(昭和34年)で、小学2~3年生頃(愛媛県宇和島市在住時代)には、ニュース等で「終戦20年」という言葉をよく聞いていました、と同時に「広島の原爆」の事は友達の間でも普通に話されていた事でした。その頃の男子小学生の歴史感?というか、私のまわりだけだったかも知れませんが、男子の興味=戦争ものと言うのが通り相場で、プラモデルは軍艦や戦闘機が主流でしたし、マンガ雑誌にも戦争もの(0戦はやと:少年キング)や(紫電改のタカ:少年マガジン)が掲載されてる時代でした。となると、原爆の話は子供にとっては歴史の話で、終戦間際のソビエト侵攻と一緒になっていました。
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こんな思い出があります。小学生低学年の頃、近所の子らと遊んでいた時の事です。雨が降って来ましたが、そんな事は気にせず遊んでいました。すると中の女の子が「雨に当たると髪の毛が抜けるよ」と言うのです。で、聞いた私は「へぇ~」と素直に受け入れましたし、その場のみんなも「そうだ、そうだ」と何も疑問に思わず納得していたのです。しかし、ちょっと高学年になり、その事を思い出すと(雨に当たるぐらいで髪の毛が抜けるわけがない)と思うようになり、頭の手入れをいい加減にするから髪の毛が抜けるのだろう・・・・と考えていました。しかし、さらに年を経るに従い、(いや、あれは女の子のお家の方が、原爆の話をしていたのだろう)と考えるようになっていました。でも「原爆の話」は遠い過去の話でした。
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さて、父が平成12年に亡くなった後、父が原爆に遭っていたLink 事を思い出したのです。あまり原爆の事を話さなかった父が、私が小学生3~4年の頃にNHKラジオのインタビューを受け、その放送を父と私と妹の3人カーラジオから聞いた記憶が有るのと、私が中学生のある日、珍しく広島時代の話を詳しく話してくれた記憶があります。父の戦争に絡む記憶はそれだけです。


ところが、父の広島での事を調べている内にこの10年ぐらい前から原爆の事を身近に感じるようになり、原爆は過去の話では無く、今の話だと言う事に気が付いたのです。核の事は、繰り返し繰り返し問題にされて来ましたし、テレビ等のメディアでもいろいろな角度で取り上げられています。私もそのような番組や本で学ばせて頂いてます。また学校現場では何度も丁寧に取り上げられて来ています。


私の子供の頃、学校の授業ではあまり原爆の事を話していなかった気がします。なので、最近の子供達の方が、原爆の本当の姿と核の恐ろしさを知っていて、大人として恥ずかしく思うと同時に子供達を頼もしく思っています。この数年は毎年夏になると幾度もカレンダーを見て8月6日を確認しています。原爆投下直後のキノコ雲の映像が出ると、あの下に父がいたのだと思って見ています。6日が過ぎると、今度が9日の長崎です。だんだん遠くなる原爆の記憶と言われていますが、むしろ私には原爆が近づいている気がするのです。

 

— posted by 兎 at 11:58 am   commentComment [5] 

この記事に対するコメント・トラックバック [5件]

Up1. マイナー — 2012/01/10@13:14:05

はじめまして。57歳の男性です。
私の父は当時、呉海軍・呉海兵團所属でした。
昭和20年8月6日、この日は江田島の海軍兵学校の教員をしていました。当日、当直勤務が空け広島の一番西端にある大竹市にある官舎へ帰る途中、船の上で原爆が炸裂するのを見たと私たち子供に話した事がありました。
しかし、寡黙な父でしたから戦争のことは殆ど口にすることがありませんでした。
きっとつらい想い出ばかりだったんじゃないかと想います。
昭和9年に招集され終戦まで海軍一筋でした。
父・母は苦労して私たち子供5人を育ててくれました。
本当に有り難いことで感謝で一杯です。
私は戦争を体験しておりませんが、4~5歳のころ傷痍軍人の服を着た方が街頭
で某がしかの歌を歌っていたのが瞼の奥に焼き付いています。きっと戦慄な光景に写ったんでしょう。今も鮮明に記憶として忘れられません。
貴方同様、益々身近に感じられて来る今日この頃です。
きっと歳を重ねてきた証拠だと思います。
この戦争で礎となられた多くの人たちの上に私たちは今を生きております。
決して忘れてはいけない事です。

Owner Comment 兎  2012/01/13@12:48:47

マイナーさんへ
コメントありがとうございました。
呉海兵団には父の父(祖父)が下士官として所属していました。その為、父達の一家も短い期間ですが呉に住んでいたそうです。祖父は機関兵曹として訓練を受けていて昭和20年には40歳ちょっとという兵隊としては老齢ながら再応召され、海防艦という駆逐艦よりも小さな護衛艦に乗り、南方へ行く輸送船護衛勤務中にアモイ付近で機雷に当たり沈没したと父から聞いています。詳しい事は判りませんが、当時はそのような方が多かったのでしょう。そして残された家族の苦労を思うと、戦争は絶対に嫌だ!と改めて思います。

傷痍軍人さんの事は私も覚えています。子供時代に住んでいた宇和島市の夏祭りで和霊神社へ行くと石段の下に白い服を着た数人の方がアコーディオンを弾いていました。昭和40年代の事なので終戦から20年ちょっとですね。若い兵隊さんの場合だとまだ40歳~50歳ちょっとだったのでしょうか?はっきり覚えています。

原爆の事は毎年少なくとも夏には思う事にしています。昨年は福島の原発の事があったりで、よけいに考えさせられました。この1月には広島の原爆慰霊碑にペンキが掛けられた事件がありましたが、本当に悔しく悲しいです。

3. フランツ — 2018/03/18@19:46:59

突然の書き込み失礼いたします。
自分の父も終戦時、呉海軍工廠におりました。宇和島市も呉の第十一航空廠の分工場がありました。
平成24年から父の呉海軍工廠での足跡を調べて本にしています。
題名は、「ポツダム少尉 68年ぶりのご挨拶 呉の奇蹟」(自費出版・非売品)です。
この本は、全国140の図書館に登録されております。
幸い、沼津市図書館には、第3版が登録されております。
是非御覧ください。

4. usagi — 2018/03/19@15:36:33

フランツ様へ

コメントありがとうございました。
戦時中の呉の事をお調べになり、本まで出版されたとの事。ご苦労様です。なぜ戦争は起こったのか?実際の戦場はどうであった?と言う本は多いのですが、機密性の高い軍需工場で働いていた方の事はあまり知られて無いと思います。とても興味が湧きました。沼津図書館へ行ってみます!情報有り難う御座いました。

5. フランツ — 2018/03/20@13:21:36

Usagi様

返信ありがとうございます。
可能ならば、第4版を読んで頂きたいのですが、全国では、140か所の図書館に登録されていますが、残念ながら静岡県は、沼津市と浜松市に第3版があるのみです。
宇和島市の御出身とのことですが、当時の宇和島高等女学校の皆さんは、呉海軍工廠と並ぶ呉市広(ひろ)地区の第十一海軍航空廠の広造機部で、人間魚雷回天の部品を製作していた記録もあります。
当時の方々は、既に、88歳以上になられていますが、宇和島市内に何方かご健在の方はおられるでしょうか?
宇和島市、八幡浜市の図書館には、ご縁があり、第3版・第4版が登録されております。アニメ映画「この世界の片隅に」の時代背景が分かる本で、カラー版の200ページの本です。
是非ご覧ください。

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